本やCDに残念さを感じる感覚
たいしたお話ではないのですが初めての感覚だったので書いておこうかと。
近頃では電車やバスの中で本を読まなくなりました。自宅ならば読むかといえば、読みません。
かわりにiPadでドラマやニュース記事や雑誌を見ています。外ではiPhoneで主にニュースやブログなどを眺めています。
しばらく紙の本から離れてみようかな、という考えもありました。
世の中が本格的に電子書籍化する前にちょっと試してみたかったのかもしれません。
で
数ヶ月ほどたった今感覚が変わりつつあります。
本やCD、DVDを見るととても残念な気持ちになるんです。
パッケージに書いてある中身しか入っていないんだなー、ということに軽く失望を覚えます。
続きが観たかったり、次作品を聴くには別のモノを買ってこなければならない。
もちろん大切な本やDVDもあります。特に気にいった本なんかは折り目や書き込みをいっぱいしてクシャクシャにする人なので、これはデジタルには出来ないことです。
ですが、大切な本というのは、百冊、千冊の中の一つなわけですから、残りの膨大な本にたいしてはそれ程思い入れがありません。なのでパッケージ以上の中身は無いんだ。っていう失望を感じます。
DVDにしても、CDにしても同じで宝物級に大切なもの以外にはどうしても軽い失望を覚えるんです。
モノとして存在しているのに、他のモノに変わることの出来ないモノの悲しさとでも言いましょうか。
一方、スマートフォンや、タブレットは中身を簡単に入れ替えることができます。
当たり前ですよね。
うまく言えないのですが、iPadも文庫本も同じモノだと考えると、後者はどうにも不器用で悲しいモノに感じたんですね。
理屈ではわかっている部分もあるのですが、
紙の本とレコード、CDで育った世代としては、新しい感覚だったわけです。
「着うた」なんてのも『好きなアーティストならCDで持っていたいけど、他は携帯のダウンロードでいいや。』って言う人がいるとするなら、この「ダウンロードでいいや」を僕は「ダウンロードで手に入れた方が便利だし」と理解していました。でも違います、それだけではありませんね。実は「いちいちCDとか持ってたら不便だし」っていうことでもあるのだと思います。
古いメディアを不憫に思う感覚ですね。
僕はデジタル時代が素晴らしいと、手放しで喜んでいるだけの人間ではありませんが、モノとしてなんともならないツール、方法はこの世から消えて行くんだろうなぁ、と思ってしまうわけです。
さいわい日本ではまだまだ電子書籍化は始まってないみたいです。なにしろ日本は革新が遅い国ですからね、ゆっくり待つとしましょう。
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とか言いながら実はcodymoonのCDのジャケット作成という、旧メディアの制作を本気でやろうとしていまして、自宅であーだこーだ苦戦していたりします。もう少しで全貌が見えるはず。
なかなか良いモノができそうです。
不憫に思われないよう愛される人のそばに届くと嬉しいです。
もう、しばらくお待ちを。
完成したちろっとライブぐらいやりたいですねー。
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なんとなく増田っぽいエントリーだったので、本家ブログからはてダにコピペしてみました。