怒りは世の中を変えられるか?

今日は真面目で青臭いエントリー

どうしても気になったので書きたかった。

ほら、お兄さん、こんなの読んでないで

あそこに可愛らしく光っている赤ちょうちんにでも行ってきなさいな。

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ちょっと前から児童虐待や肉親殺傷などの痛ましい事件が続いていて

巷でもネットでも、あきれ、怒りに満ちた人の色々な言葉が飛び交っていた。

当然のことだ。だって酷い事件が多いんだもの。

でもなんか違う気もするな。

俺は違和感を感じた。それは徐々に大きくなってきて

うーん、なにかしら?これ

と、考えてみたら理由がわかった。

まずこの怒っている人達は当事者、関係者、被害にあわれた方の近しい人達ではない、第三者であることを前提とします。

素直な感情である「怒り」を感じることは、とても大事なんだけれど

怒りだけじゃ駄目なんですな。

怒りだけでは法律は変えられないだろうし

正しい判断もできないだろう。

怒りでもって世の中を変えたら、それはすなわち「魔女狩り」をやることになってしまいそうだ。

でも

最初の感情として怒りはとても重要だと思います。

俺も、腹の立つニュースを聞けば、きっとカンカンに怒ります。

大事なのはそれが冷めたあとの話

せっかく怒ったのだから、その後も形にしなさいな って思うんですよ。

形にするって、ジャーナリストや市民運動家になるんじゃなくて

前よりちょっと気にしてニュースを見たり、行政や自治体、司法の対応を少しだけ知る、ぐらいでいいと思います。

本当になんでも良いと思うよ。

昨今では、そういうことしなくて良いよねぇ、っていう風潮があるような気がするのだ。

それに

マスメディアは民衆の「怒り」が好きなんだな。

我々がさっと怒って、さっと冷めて、また別のニュースに対してさっと怒ってくれるほうが彼らも商売がしやすいし。

そう考えるとなんだか馬鹿にされているみたいで悔しいね。逆らいたくなる。

うん

だらだらと書いていたら、わかったぞ。

言いたいのは

あんたはきっと優くて強い奴だ
そんなあんたが、せっかく誰かのために腹をたてて色々と語るのなら
怒りが冷めた後も、その誰かのことを頭の片隅でいいから考え続ければいいじゃない。
じゃないとあんた、ただの野次馬がクダまいてるだけになっちまうぜ!

って話ですな

おしまい。ぷー。
(2010/4/12 codymoon blog より転載)